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小指だけつないで [小説: Short Stories]

   小指だけつないで
                    小島  澪

 改札口を通り抜けたところで、無数の銀の糸が街路樹の葉を滑り、アスファルトを濡らすのが見えた。
 売店でビニール傘を買い求める人の列に連なろうとして、ふと思いとどまった。
『もう置く場所ないからね』
 先月も急な雨にビニール傘を買って帰り、しっかり者の綾子に玄関傘立ての傘の束を見るように言い渡されたのだ。
 駅から続く上り坂の向こうは灰色の雲が切れてわずかに明るい。少し待てば止みそうな様子だ。
 傘の花が次々に開いて散り散りに視界から消えていく。
 ロータリーでは家族を迎えに来た車やタクシーが輪のようにつながり、ほぼ一定のテンポで国道に滑り出す。
 軒から滴る雫を見上げてぼんやりしていた時、足元から視線を感じてそちらに目をやった。
 赤いレインコート長靴、ギンガムチェックの小さな傘。全てを赤で統一した、まるで金魚のような出で立ちの女の子が、じっとおれを見つめていた。
 体より大きな紺色の傘を抱きかかえていなければ迷子になったのかと思うほど、唐突にそこに立っていた。
「実那ちゃん、お迎えに来てくれたんだね?」
 膝を折って微笑みかけると、実那はまったく表情を変えずに腕を伸ばして長い傘を差し出した。
 子ども向けのサービスが空振りすると、大人としては結構悲しい。
 まあ、仕方がないか。
「ありがとう」
 傘を受け取り、ゆっくりと開く。
 それを見届けた実那は、くるりと回れ右をして先に歩き出す。
 おれも、実那に靴の先がぶつかったりしないように、かといって離れすぎない絶妙の距離を保てるように気をつけながら、夕方の雨の街に足を踏み出した。

 雨の雫が傘の上でバラバラと音を立てて跳ねる。
 無言で坂を上りながら、足元を用心深く見守った。
 五歳の実那にはこの坂は少々きついようで、ふうふう肩で息をしながら懸命に足を持ち上げている。
 抱き上げたり背負ってやりたいのは山々だが(その方が自分も早く歩けて楽だ)、残念ながら簡単にそうできない事情がお互いにあった。
 コーヒー豆を販売する会社の営業として担当しているスーパーマーケットで働いていた綾子と知り合い、付き合いはじめて一年になる。
 実那は綾子の前の夫との間に生まれた娘だ。
 二歳の頃に別れた父親をはっきり記憶しているのかどうかはわからないが、実那はおれに対して未だに他人に対するのと同じ警戒心を抱いており、こちらから手を握ったりすれば全身で拒絶し、この世の終わりかと思うほどの大声で泣き叫ぶ。
 結婚前のシミュレーションのつもりで一緒に住みはじめて三ヵ月。
 実那にとっておれは赤の他人であり、家の中にいる異物として認識されているようだ。
 『すぐに慣れるわよ』と楽観していた綾子もさすがに最近は深刻に悩んでいる様子だ。
 おれは元々特別子ども好きでも子ども嫌いでもなかったが、小さな子どもに嫌われるとそれはそれで深く傷つくものだなと知った。
 まるでおれの本質の悪さを見抜いて人格そのものを否定されているような気分になる。
 小さな家の中で、三人の同居人のうち二人がお互いの存在にビクビクしながら過ごしているというのは、精神衛生上もよろしくない。
 正直なところ、おれ自身としても、この状況の打開策がない以上、この親子と家族になることはあきらめなくてはならないということを考えていた。
 ここ数日は綾子もおれもなんとなく沈んだ気持ちで過ごし、家での会話は挨拶と最低限必要な単語に留まっていた。

 坂を上りきったところで、実那が足を止めた。
 疲れたので一休み、というところか。
 おれもそこで足を休め、立ち止まったままの実那の小さな傘の下をこっそり上から覗き込んだ。
 実那は左側に顔を向けて何かを熱心に見ている。
 植込みの切れ目から、坂の下に広がる街の灯が見えた。
「へえ、いい眺めだな」
 思わずそう感想を漏らしてしまうほど、高台から望むその景色はなかなかのものだった。
 昼から夜に切り替わるこの時間の微妙な空の明るさと道路沿いの街灯やそれぞれの家の灯りが溶け合う街を雨が濡らす。
 実那の生活をなるべく変えないよう、綾子と実那が元々住んでいた1Kのアパートにおれが引っ越してきたわけだが(狭いのでスーツと生活に必要なものを少し持ち込んだだけだ)、三ヶ月にもなるのにこの場所の景色を眺めることもしなかった。
 立ち止まって周りを見るくらいの余裕がなきゃ、ダメだよな。
 余裕のない大人が子どもに慣れてもらおうというのも無茶な話だ。
 肩の力がすうっと抜けた気がした。
 その時、下り坂にも関わらずかなりのスピードで軽トラックがやってくるのが視界に飛び込んできた。
 本能的に右手を伸ばしてかばうように実那の背中に回す。
 低くうなり、飛沫を飛ばしながら背後をトラックが通り過ぎていく。
 雨の中無茶な走り方をするヤツもいるもんだ。
 その時、左手に何かが触れたのを感じて見下ろした。
 柔らかで小さな手が、おれの小指を握っていた。
 傘を担いだ実那がおれを見上げた。
 笑いはしなかったが、いつものように激しく拒絶することもなかった。
 そして、小指を握ったまま、再び黙って家に向かって坂を上りはじめた。
 おれは手を引かれるままにあわてて並んで歩き出す。
 考えようによっては、五歳の女の子が傘一本持っておれのために一人で駅まで来てくれた、というだけでももしかしたらすごい進展なのではないか。
 なぜかこのことに一筋の光を見出したと言ってもいいくらい、可能性を信じたいと思っている。
 もしかしたら綾子も最後の賭けのつもりで実那を送り出したのかもしれない。
 実那のお遣いの動機が、お気に入りの雨のファッションを楽しみたかっただけだったにしろ、おこずかいやご褒美を期待したにしろ、ただの気まぐれにしろ、今日は久しぶりに明るい気持ちで綾子の顔を見られるような気がする。
 おれは恐ろしくのんきで前向きないい性格なのかもしれない。
 今日が小指なら、明日は薬指、その次は中指、それから人差し指、という風に少しずつ、一歩ずつ、近付いていけるように思えるのだ。
 おれもこの子も、不器用な分、気は長いようだ。

「この景色、好きだったなあ」
 日暮れの朱鷺色に染まった街をまっすぐ見下ろして、実那はぽつりとつぶやいた。
 おれは笑った。
 二度と来られないようなことを言うのはおかしい。
「いつでも帰ってくればいい」
「……うん。ありがとう」
 実那は笑った。普段はそう感じないが、笑うと綾子にそっくりだ。
「結婚のこと、最初は、お母さんもみんなもどんどん前に進めていくだけだからなんか怖かったんだ。いやならやめてもいい、ってお父さんが言ってくれたの、嬉しかった。土壇場でもなんとかなる、って思ったらかえって覚悟できた」
 そりゃあ、本当は行くなって言いたいのが本音だからな。
 口にはしないけれど、おれは実那から目をそらして街を見下ろした。
 ここに来ると、あの雨の日を思い出す。
 実那がいてもいなくても、仕事帰りにこの場所で必ず立ち止まるのが日課となった。
 二十年の間に、空き地だった場所にマンションが建ったり、川沿いに公園ができたり、見下ろす街の様子はそれなりに変化していた。
 その間におれも、綾子と結婚し、親子三人で狭すぎない程度の家を買った。
 明日の練習、と言って、実那がおれの腕に手をかけた。
「ゆっくり歩いてね。ドレスが足にからまって、少しずつしか歩けないから」
 こうして腕を組んで歩けるのは、明日が最後だ。
 そんなリクエストがなくてもとろとろ歩くことだろう。
 少しでも長くここに留めておきたくて。


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